本日は秋田県の公立高校の入学試験日。暖かい雨模様の朝、りーちゃんはやや緊張した面持ちで出かけていった。そろそろ一時間目の国語の問題が配られているころであろうか。リラックスして、結果を意識せずに眼前の問題に集中して欲しい。
りーちゃんは、そもそものんびりした穏やかな性格で、受験といった競争にはあまり向いていない。同じ高校にトライする友達に話しが及んでも、「みんな受かるといいなぁ」とか「高校受験は点数によって学校を振り分けて、受けた人はみないけるようにしたらいいのになぁ」と終始こんな調子であった。
さすがにここ1カ月は、こちらもネジを巻いてあげなくてはいけないと思い、一度や二度は、もうちょっと踏ん張ろうと叱るような場面もあった。そこで感心したのは、りーちゃんが叱られた翌朝に、いままで見たことのない道徳の本を持ち出して読んでいたことだった。
中学生の道徳「自分をのばす」と題した本の冒頭には、自分の一歩という文章が載っていた。
「いま わたしの踏みしめる一歩は だれか他の人の一歩ではない わたしの足が地上に刻む一歩は いつでも わたし自身の一歩なのだ」
「他の人より一歩先を歩くからといって 他の人より優れているとは限らない 他の人より一歩後を歩くからといって 他の人より劣っているとは限らない」
「自分の目標を定めて歩き出したのだから 自分の一歩をしっかりと信じて進もうーその決意が 最後まで歩く力を生む」
次の、「道はいつもひらかれている」という文章は、「道は、すべての人の前に開かれている。その人にやる気があるかないかだけである」「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、道がとざされていると思う人の前には道はとざされている。自分はだめだと思う人はだめになっていく。」
「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにはないのである。」「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、生きがいとしあわせとを、つかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢のなかだけにしかない。」
「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、個性のない人生は真実の人生ではない。たとえすぐれた人のまねをしても、まねをすることでつかみあてられる自分の人生というものは、この世にはないのである。」
「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、人が一度でやりとげられることが、自分には一度でやりとげられないこともある。一度でやりとげられないことは、十度やってみよう。十度やってもやりとげられないことは、百度やってみよう。」
「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、やりとげるまではけっしてやめないこと。そしてそのやりとげようとするこころをけっして失わないこと。」
「道は、すべての人の前に開かれている。しかし、したいことだけをして、しなければならないことをは、なかなかやろうとしない人もいる。しなければならないことこそを、まず行う人になりたいものである」
ほんの一部を紹介したが、りーちゃんの教科書の何箇所かには○印がうたれ、黄色いマーカーで線が引かれていた。これで充分だと思った。結果は一週間後に発表されるが、全力でぶつかった結果はもはやどうでもよい。
仮に合格したとしても、残念ながら届かなかった同年代の少年少女に対する労わりの心とその努力の過程に敬意を表して、一方で不合格になった場合にも、りーちゃんの受験に臨むプロセスに対して金メダルを授与する意味合いで、合否のお知らせは控えさせていただく。
大人や教師は、少年少女の手本になっている身として、一度じっくりと省みて欲しい。こども手当てに予算をつけるよりも、よほどこどもを社会全体で育てるためには効果的な環境作りになる、と私は思う。
